2014/06/18

枯れる準備

 両親がお墓を買ったのだという。
 不思議と何の感慨も湧かず、あえて言うなら、もうそんな歳になったのね、と思うだけだった。
 複雑な家庭環境で育った父には、もはや実家と呼べるところはとうの昔になく、人生のほぼすべてを実の親と同居してきた母には妹しかおらず、祖父母の苗字は途絶えてしまい、入るお墓がなかった。2年前に70歳を超えた父と来年70歳を迎える母にとっては、ずっと気になっていたことだったのだろうと思う。
 市内の、ちょっと高台の、山みたいになってるところでね、見晴らしがいいのよ、お墓参りに来てくれた人がいい景色が見えるように、西向きの区画を買ったの、私たちが2人とも死んだら、そのまま永代供養になるから、何も気にしなくていいからね、……。
 そんなふうに話す両親の言葉を聞きながら、私は、この人たちは穏やかに枯れる準備をしている、とだけ思ったのだった。そして、人はみんな、結局そこに行き着くのだな、とも。

2014/06/13

違う景色

 小さいときに嫌いだったのは、歯医者に行くことと眼科に行くこと。歯医者はあの「キーン」という音がたまらなく嫌だし(今でも怖い)、眼科は視力検査で見えなくて「わかりません」と言うのが嫌だった。はじめてめがねをつくってもらったとき、それまではぼやけていた楽譜があまりにはっきり見えるので驚いたことを覚えている。
 久しぶりに、コンタクトレンズを新しいものに変えた。裸眼がどちらも0.1ない私はド近眼で、めがねをつくれば牛乳瓶の底のような厚いレンズになってしまうので、高校時代からもっぱらコンタクトだ。
 「かなり度が強いねえ」と言われながら検査してもらった目には傷もないそうで、ドライアイであることを指摘された以外は特に気になることもなかった。
 注文していたレンズを受け取りに行き、新しいレンズを目に入れ、いつもより目をぱちぱちさせた。見えるものが変わるわけではないのに、なんだか景色が違うような気がするのはなぜなのだろう、と思う。

2014/06/03

ヨガマット越しの対話

 ブラックマットと呼ばれるmandukaのヨガマットを持っている。スポーツ店で1,500円くらいで買えるヨガマットを基準にするとかなり高いけれど、そのぶんグリップ力もあり、どんなに汗をかいても滑らないところが気に入っている。
 はじめてヨガのレッスンに行ったのは10年前。かなり熱心にレッスンに通い、ときには自宅でも練習していた。それが、ヘルニアがひどくなってから離れざるを得なくなって、6年ほどが経つ。
 それでも、自他ともに認める極度の運動音痴の私が人と比べることなく体を動かすことができ、その上精神的にも穏やかになれるヨガは、いつか再開したいと思っていた。
 久しぶりにやったヨガは、やっぱり楽しかった。以前はできていたポーズもできなくなっているし、できなかったバランス系や逆転系のポーズはますますできなくなっているけれど、それでも呼吸に意識を集中してひとつひとつ確認しながら動いていくのは、自分自身に深く下りていくようで心地よかった。
 対話なのだな、と思う。ヨガを通して、自分の体や心と対話をする時間をつくっているのだ。
 今日体験に行ったヨガスタジオに、その場でそのまま入会してきた。これからまた、ブラックマットを担いでレッスンに通う日々が始まる。