2014/02/28

詩のやさしさ

 ところで「かた雪かんこ、しみ雪しんこ」と書いたのは宮沢賢治で、『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』、『セロ弾きのゴーシュ』などで有名だけれど、私が大事にしているのは、むしろ宮沢賢治の詩のほうだ。中でも、「告別」という一編がたまらなく好きで、姿勢を正したいときに読み返す。
*「告別」 は新潮文庫の『新編 宮沢賢治詩集』所収
 「告別」は10年以上前から大好きな詩だ。ただ、詩を読むようになったのは、明らかに震災以降のこと。当時は長い文章を読めず、読んだとしてもただ素通りするだけだったのに、詩はすうっと気持ちに馴染んで浸透してくるような感覚だったのだ。宮沢賢治だけでなく、谷川俊太郎、長田弘、池澤夏樹、高村光太郎、工藤直子、と貪り読んだ。
 そのときの私は、震災で欠けてしまったものを探していたのだと思う。テレビのニュースを見ては泣き、ネットを巡回しては泣き、空を見ては泣いていた私は、もちろん詩を読みながらも泣いた。
 詩は、やさしい。底抜けに。それが、私が探していたピースだったのだ。

2014/02/27

かた雪かんこ

 冬になって雪が積もると、歩くときにいつも「かた雪かんこ、しみ雪しんこ、かた雪かんかん、しみ雪しんしん」と頭の中で何回も唱えている。四郎とかん子と狐のように。キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。
 冬は大好きだけれど、そろそろ春が待ち遠しくなってきた。もうすぐ、「かた雪かんこ」の季節も終わる。春になったら、買ったばかりの白いライダースジャケットを羽織って、春用のブーツの踵を鳴らして歩きたい。
 かた雪かんこ、しみ雪しんこ。

2014/02/25

 仕事で、朝早い高速バスに乗って仙台に向かった。路線バスに乗り換えるために仙台駅で下りたら、ペデストリアンデッキは人、人、人。よく考えれば、今日は国公立大学の2次試験だった。
 自分の2次試験のときのことも、呆れるくらいまだ覚えている。最寄り駅から大学までの上り坂に目を見張ったこと、キャンパスから見えた富士山がとてもきれいだったこと、試験監督は白いセーターにジーンズを穿いていたこと(あとから思えばフランス語の先生だった)、女子高だった私にとっては、同じ教室に男性がいるのが久しぶりで変な感じがしたこと…。
 通っていた高校は進学校だったにも関わらず、私は勉強にも部活にもそれほど熱中することなく、ただぼんやりと暮らしている高校生で、受験勉強もそれなりにしかやらなかった。それでも願書を出し、書類が届いて末尾に5がついた受験票を眺めているときに、母が「5のついた番号は『5を書く』、合格っていう意味につながるから縁起がいいのよ」と言ったことは忘れられない。普段は縁起かつぎのようなことを一切言わない母なのに、ああ、励まされてるんだなあ、と思った午後の日差しの感じまでも。
 あの大学に行かなかったら、今の私はないのだ。不思議な力に導かれて、その人にとってベストな道を歩くのが人生なのだな、と思わずにはいられない。たくさんの受験生たちの前にもきらきら光る未来がありますように、と朝日の中で思った。

2014/02/24

旅先での旅

 旅には必ず文庫本を持っていくけれど(重量の制限がなければ、そして私がもっと力持ちであればハードカバーを持っていくところなのだけれど)、旅のときにバッグに入れるのはエッセイだ。小説は持っていかない。
 小説はそれそのものが旅だから、旅先で旅をする必要はない、ずっとそう思ってきたのに、なぜか今回手荷物にしのばせたのは、池澤夏樹の『光の指で触れよ』という小説だった。ここ3年ほど、何回読み返したかわからない。
 私にとっての池澤夏樹の文章は、なんというか、新しい精神世界に触れるようなものだ。新しい哲学や新しい宗教のような。今まで気づきもしなかった新しい道を、ほら見てごらん、と目の前に示されるような感じ。そしてそれを見てしまったが最後、知らなかったときにはもう戻れないのだ。新しい世界と自分とをつないでくれる作家。
 飛行機の中で、ホテルの部屋で、折に触れて本を開いた。どこかに向かう旅の途中にアムステルダムやスコットランド、そして自分の心の中に旅をするのは、悪くない気分だった。

2014/02/23

物語を編む

 「ものがたり」という言葉について考えている。
 インターネットで取り上げられるニュースや頻繁に読みにいくブログも、その多くは誰かの物語だ。人にはそれぞれの物語があって、それはその人にしかつくれなかったもの。そう考えると、その物語を編んだだけで、人生には価値があるのだと思う。
 新卒で出版社に入社したとき、ある上司が「編集者とは、言葉を集めて編む人だ。その『編集者』という言葉の奥にある意味を考えながら仕事をしなさい」と言ったことを今でも憶えている。それからずっと、「言葉を集めて編む」という表現そのものが、私の目指す方向を指し示しているといっても過言ではない。
 生きることが物語を生むことなのであれば、私はより多くの人に私の物語を知ってほしいし、より多くの人の物語を知り、それを人に伝えたい。深く人と関わりあっていきたい。
 私の物語の舞台は、ほかの誰でもなく、私の人生だ。これからも、私の人生で、私の物語を編んでいく。小さくても新しい物語を紡いで、ただ差し出していくという、ささやかな決意。

2014/02/22

 それが日本のどこであっても、本がたくさんあるところは落ち着く。いくつか気に入っている書店があって、山形だったらやはり八文字屋本店、仙台はジュンク堂(お店にたどり着くまでが難関だけれど!)とあゆみブックス、大阪ならスタンダードブックストアが好きだし、学生時代当時の静岡では戸田書店が好きだった。東京だったら3つ、京都なら2つ、好きな書店を思い浮かべる。

 だから、海外に行っても、まず書店を探す。居心地がいい書店があれば、もうそれだけでいい。ロンドンではチャリング・クロスに足を向けてしまうし、それほど大きな書店がなかったニューカッスルでは、大学の図書館に入り浸っていた。

 フィンランドに行くと決まってから、ここには必ず行きたいと思っていたところのひとつがアカデミア書店だ。アルヴァ・アアルトの設計で建てられた場所。

 実際に訪れたアカデミア書店は、吹き抜けになっている天井が解放感を感じさせ、平積みや面陳の本さえもアアルトの作品の一部のようだった。ここで平気で1日を過ごせてしまう。

 英語と違ってフィンランド語はまったくわからないし、字面を見て意味を推測することすらできない。けれど、それでも本があるというだけで私は単純にわくわくし、手当たり次第にいろんな本をめくってきたのだった。



2014/02/21

visitorがvisitorのままでいられる場所

 そういえば、フィンランドでは、嫌な思いをただの1回もしなかった。
 ニューカッスルはイングランドの北部にあって、スコットランドにほど近い。一時は炭鉱で栄えたのだというが、それほど大きな都市ではなく、留学生にも住みやすいところだ。私はごく普通のイギリス人家庭にホームステイし、自分がアジア人であることを気にしたことはなかった。
 でも、ロンドンでは違った。ほんの数日滞在しただけなのに、人種差別的な言葉がつきまとう。英語もできない、実年齢より子どもに見える”visitor”であることを、どうしても意識せずにはいられなかった。
 たぶん、悪気はないのだ。意識しない優位性とでも言えばいいのか。たまたまだったのかもしれないし、あまりにも私が英語ができないことにいらいらさせられたのかもしれない。もちろんそんな人ばかりではなかったけれど、イギリスという国では私は外国人であるということを痛感させられ、痛感させられたことに傷ついたのも事実だった。それでも、私はイギリスが大好きなのだけれど。
 フィンランドの人はみんな親切だった。お店に入ればマニュアルではない笑顔が返ってくるし、料理をサーブしながら「楽しんでる?」と声をかけてくれる。トラムの乗り場でまごついていれば「どこに行きたいの?ここに行きたいなら、この停留所で降りればいいよ」と教えてくれる。べったりもしていないし、かといってそっけなさすぎない、その距離感がとても心地よかった。
 visitorがvisitorのままでいられる場所。フィンランドに恋をしてしまったのは、それも大きな理由のひとつなのかもしれない。

2014/02/20

遠泳

 「編集者の特権は、最初の読者になれること」だと思っていたけれど、それになぞらえて言えば、「校正者の特権は、言葉で著者と読者の橋渡しができること」だと思う。
 それでも、いつも初校のゲラを目にすると、深い海の底にいるような気分になる。このゲラをどこに連れていって、どう上陸させればいいのか、そのためにはどんなルートで行けばいいのか、その本ごとに正解は違うから。言葉の海でただ泳ぐしかないとはわかっていても、やはり途方に暮れる。
 丹念に文章を読み込んでいくと、著者の意図はくっきりと浮かび上がってくる。こういうことを言いたいんだな、だとしたら表現をこう変えたらいいんじゃないかな、言葉の順番を入れ替えてみようか、この読点はないほうがいいんじゃないか…。そこにある思いを踏まえた上で、どうしたら読者にもっと伝わるのか試行錯誤する、そんなことの繰り返しだ。
 印刷所に入稿するまで、遠泳はまだ続く。

2014/02/19

魂を売り渡す

 私にとっては、「ケーキを買う」ことよりも「チョコレートを買う」ことのほうが特別で、さらにそれが「銀座でチョコレートを買う」ことであれば、そりゃあうきうきしないわけがないのだった。
 ぐっと力を入れて重いドアを押し、朱色がかった赤とチョコレートブラウンに彩られた店内で、ショーケースに並べられたきれいなチョコレートに、うわあ、と声を上げる。次々と目移りして、オランジェットも大好きだし、アソートはパッケージもかわいいし、板チョコもおいしそうだし、でも自分でも選びたいし…とさんざん逡巡して、結局ショーケースから4種類のチョコレートを選んだ。
 ガナッシュにプラリネを2つ、それにシャンパンのトリュフ。チョコレートは名前さえもうっとりする。チョコレートが詰められた小さい赤い箱をさらに赤い袋に入れてもらって、銀座の街を機嫌よく歩いた。
 チョコレートは幸せ以外の何者でもないのに、それでいて蠱惑的で、食べるときはいつもどこか後ろめたいような気がするのは、きっとチョコレートという悪魔に少しだけ魂を売り渡すからだ、と思っている。

2014/02/17

諦念と哀しみ

 ときどき、自分は旅が好きなのではなく、移動するのが好きなのではないかと思ってしまう。移動も旅の一部なのだと思うけれど、それでも。
 新幹線や飛行機に乗り込み、自分の体が時速数百キロの速度でどこかに運ばれていくことが、私にとっては自分の中の風通しをよくすることなのだと思う。たとえ自分で決めた旅だとしても、自分の意志とは関係なく、否応なしにどこかに行かなければならないという小さな諦念と、ああ、これでもう元には戻れない、というささやかな哀しみ。
 週末の大雪で、昨日の夕方まで山形新幹線が運休だったので、今日の移動は飛行機に切り替えた。飛行機は定刻通り飛び立ち、私は機内でまだ終わっていない仕事をすることもなく、本も開かず音楽も聞かず、ただぼんやりとしていた。
 上空は、今日も青かった。

2014/02/16

旅の共有

 まだ、フィンランドに行ったときのことをうまく書ける気がしない。
 旅はごくごく個人的なもので、今回は5人で行った旅だったけれど、誰かと一緒にいたとしても、結局はひとりなのだ。私は私の感じたことしか書けず、それは抽象的にしかならない気がする。
 本当にこの旅を誰かと共有できたらいいのに、とも思うけれど、それはできないことだと知っている。たったひとりで、心と目に刻んでいくしかない。そして、共有できないことを知りつつ、それでも私が感じて考えたことをそのまま伝えられたらいいのに、と願っている。

2014/02/15

「理由」という名のストーリー

 オリンピックが大好きな私は、ここ最近テレビに釘付けになっている。
 アスリートと呼ばれる人は美しい。自他ともに認める極度の運動音痴の私にとっては、アスリートは対極にいる人たちで、だからこそ美しいと思うのかもしれない。しなやかな身のこなしも、攻めの姿勢も、真剣なまなざしも。
 たくさんの競技があるけれど、どうしてそれを選んだのか、どうしてその競技をすることになったのかということに、私はとても興味がある。どこまでいっても、「理由」という名のストーリーを知りたいのだ。
 いつか、そんな人たちに直接話を聞いてみたい、とぼんやり思っている。

2014/02/14

人を信じるということ

 深夜のモスバーガーでハンバーガーにかぶりつきながら、彼女は「もっと人を信じてもいいんじゃない?」と私に言ったのだった。
 仲良くなって間もないときに、ふとした瞬間に突然そう言われて、私はたぶん鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのだろう。笑いながら、「人は思ってるよりも優しいよ。もっと人を信じても大丈夫だよ」と繰り返し言った。
 でも、そのときの私は、本当にはその意味を理解していなかったのだと思う。そうなのかなあ、と返事はしたものの、今思えば、たしかに当時の私は人を信じていなかった。信じていなかったから人が怖くて、だからより攻撃的になっていた。きっと彼女は、そんな私を見抜いていたのだと思う。今はダメな自分も前よりずっと受け入れられているし、自分でも開いてきたと感じている。
 もう彼女と交流はないけれど、今の私は彼女にはどう見えるのだろう、とときどき思い出す。

2014/02/13

無邪気という概念

 「無邪気」なんて言葉は信じていなかった。小さい頃から、周りの人がどうして欲しいのかを読み取り、変なところで大人ぶってきた私にとっては、まったく理解できない概念だったから。
 一度そう振る舞ったことで、これからもそうしてくれるのだろうという期待を感じ取ってしまい、私はますます自分のそんな要素を自分の奥底に閉じ込めた。だからこそ、無邪気そうに見える人のことは、軽蔑しつつも強烈に羨ましかった。無邪気でいられるって、ひとつの才能だ、と思っていた。
 外側に合わせて、自分の形を変えることはいくらでもできた。実際そうしてきたし、大人という人種はみんなそういうことをしているのだと思っていた。そこには「邪気」が入り込んでいるのだから、もはや無邪気ではない、と思っていたのだ。
 でも、世の中には大人になっても無邪気な人がたくさんいる。そして、例外なく、そういう人たちは楽しそうに見える。
 大人が無邪気でいてもいいのだ、ということ。ピッピやロッタちゃんみたいに自由でありたい。

2014/02/12

かなわない

 東北芸術工科大学の卒展を観に行った。
 毎年毎年、かなわないなあ、と思う。今年もまた、かなわないなあ、と思った。
 頭の中にモヤモヤと存在している何かを、他の人がわかるような形で見せられるようにするためには膨大な時間がかかるはずだ。そしてさらに他の人に共感し、いいと思ってもらうためにはどれだけのエネルギーを注がなければならないのだろう。そんなことに4年間ずっと取り組んでいた人たちには、やっぱりかなわない。
 かなわない、と思いつつ、それでも私は書くしかないということもわかっている。4年間ずっと時間を費やした人には遠く及ばなくても、私には書くことしかできないのだ。それを痛感し、また刺激を受けた展示だった。
 私の中のクリエイティビティを、閉じ込めておいてはいけない。