2013/05/24

いちばんのなぐさめ

人が死ぬってどういうことだろう。空を見ながらまた同じことをぼんやりと考える。
もう会えなくなる、急にいなくなる、触れなくなる、体がなくなる……どれもしっくりとは来ない。自分はまだ生きているから。
どんなことがこの状態をいちばんなぐさめたのだろう。時間か、鈍さか、新しいできごとか。
よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター』(幻冬舎、119ページより)
彼女と話した回数は、決して多くない。仲がいい友達なら、他にもいた。彼女にとっては、私は「何回か話したことがあるクラスメイトのひとり」だったのかもしれない。
それでも、くっきりと思い出す。体育館から教室に戻る途中、白っぽい光が差し込む廊下で制服のスカーフをもてあそびながら、「ヘビーだねえ」「ほんと、ヘビーだよねえ」とぽつりぽつりと交わした会話の断片、すんなりと伸びた細い手足と大きな目。なぜだかはわからないけれど、お互いがお互いの言葉をちゃんと理解しているという確信があって、きっとそれは彼女も同じだったのではないかと今でも思っている。
もう彼女と会うことはできないけれど、彼女に接していた左半身全体で、びりびりと「通じている」と思ったあのときの感覚は忘れない。忘れられるものではない。そして、その感覚が、彼女がいなくなったことを私が受け入れるための、いちばんのなぐさめだったのだ。

2013/05/19

主観的になれる場所

 いろいろな場所で、客観的に物事を見る役割を求められてきた。もともと、輪の中心にいるよりはすこし離れたところで見ていることが多かったし、その役割を果たすために、最近は必要以上に客観的にあろうとしていたのかもしれない、と思う。
 でも、やっぱり人にはとことん主観的になれる場所も必要だ。そして、私にとってのそれがここなのだろう。ジャッジしない、事実か推測か、そんなこともとっぱらって、私が私の感情を認めて味わう場所。たまにはどっぷり主観に浸ろうじゃないか。
 書き続ける。ずっと、ここで。

2013/05/15

私の歓喜の歌

 11日の夜、山形交響楽団の第229回定期演奏会へ。
 メインプログラムであるブラームスの交響曲第1番は、完成までに21年を要したことで知られる大曲だ。ベートーヴェンを敬愛していたブラームスは、「ベートーヴェンのような巨人の足音を背後に聞きながら仕事をするのがどれほど大変なことか、君たちにはわかるまい」と言ったとされている。ブラームスほどの人でも、ベートーヴェンを超える曲を書かなければと思っていたことは想像に難くない。
 ティンパニの重々しい音が印象的な第1楽章は闇に包まれているが、それが楽章が進むに連れてすこしずつ明るくなっていく。最後の第4楽章はベートーヴェンの第九になぞらえ、歓喜の歌をうたいはじめる。同じ曲であっても、指揮者やオーケストラが違えば、違う曲に聴こえるのは当たり前のこと。音楽はなまものなのだ。それがわかっていてもなお、山響が表現したこの日のブラームスの歓喜の歌は、本当に素晴らしかった。あの音はあの日しか聴けなかったもの。その場にいられたことそのものが、私の歓喜の歌だった。

2013/05/08

夜を運ばれる

 日帰りで東京。
 新幹線でも飛行機でも高速バスでも、空いている限りは窓側の席に座る。窓の外を眺めていると、些事でぱんぱんにはち切れそうになっている頭の中もリセットされるのだ。
 今日も例外なく、往復とも窓際の席。ぼんやりと、夜を運ばれていく。

2013/05/04

言葉で考える

「よっちゃんはなんでも言葉で考えるからだよ。ぐるぐるぐるぐる回っても、答えが出ないことがいっぱいあるでしょう。でもよっちゃんにとって、それこそが時間をやり過ごすやり方なんだと思うから、幼いとかよくないとか思ったことはない。でも、なんでもない空間をただじーっと、何も考えないで見てるような、ぐっとこらえ抜くようなやり方もある。おふくろさんは、そっちのタイプの人なんじゃないかなあ。」
(よしもとばなな『もしもし下北沢』毎日新聞社、234ページより)
 母に、「あんたは直感と勢いだけで生きてるわねえ」としみじみ言われたことがある。そして、自分でもそう思っていた。
 けれど、それは違っていたのだな、と今は思う。論理的とはとても言いがたいけれど、私はなんでも言葉で考えるタイプだ。きちんと言葉で表現できたら何よりもうれしいし、それができなかったときはどうしても残念な思いがつきまとう。自分の思いを100パーセント言葉にできるとは思っていないけれど、できるだけそれに近づきたいと思っている。
 「私は直感で生きている」と言いたかったのかもしれない、と今なら思う。でも、どうしても言葉で考えるのが私。それならそれを認めて、どう表現していくかを考えよう。

2013/05/03

ガラスのかけら

 思い出はきれいなガラスのかけらのようだ。ときどき、すこしずつ取り出してはためつすがめつしながら眺めて、また大切にしまう。