2013/02/28

春を告げる花

 春告鳥といえばウグイスのことだが、私にとって春を告げる花はミモザだ。淡い黄色のふわふわした小花が枝いっぱいに咲く。東京で暮らしていたときは、このくらいの時期になると花屋さんを覗くのが楽しみだった。ミモザがあったら買って帰り、黄色に華やいだ部屋の中で、私もうきうきしていたものだった。そういえば最近、ミモザを買ってないな、と思う。
 一気に春めいた今日は、一日中屋根からの落雪の音が響いていた。
 もうすぐ、春が来る。

2013/02/25

調律師のように

 気持ちが波立ったり、必要以上にぶれていると感じたら、調律師さながらにバッハをかける。フーガ、シャコンヌ、コラール、インベンション、そしてゴルトベルク。バッハを聴くと、物事があるべきところにおさまり、気持ちも鎮まるのだから不思議なものだ。
 ときどき、バッハはまるで数学者のようだ、と思う。たどりつく正解が事前にわかっていて、その正解を導きだすために、ただ淡々と美しく音を積み重ねているだけのよう。数式が美しいのならば、バッハの曲も、そして楽譜さえも美しいに決まっているのだ。

2013/02/24

腕時計

 たとえば洋服や靴を欲しがるのと同じようなサイクルで、腕時計を欲しがる人はいるのだろうか。
 私が持っている腕時計はふたつ。就職するときに買った、普段使っているお気に入りのものと、夫がプレゼントしてくれたBaby-Gだけだ。
 普段使いのものは、フェイスがシャンパンピンク色をしていることと、秒針が明るいブルーなのが気に入っている。当時の私にとってはちょっと高めの値段で、それでもどうしてもこの腕時計が欲しくて、思い切って買ったものだ。使っている以上傷がつくのは当たり前だと思っているので、落としたりぶつけたりしても気にしない。必要以上の気遣いなく、無造作に扱えるものが、私にとって使いやすい時計だ。
 そして、この先新しいものを買うつもりは、今のところはまったくない。

2013/02/20

かなわない

 ときどき、無性に詩を欲するのはなぜなのだろう。
 谷川俊太郎の「朝のリレー」や「ぼくもういかなきゃなんない」、茨木のり子の「自分の感受性くらい」、高村光太郎の「道程」、「あどけない話」、「元素智恵子」。いちばん好きな宮沢賢治の「告別」に至っては、読むたびごとに、涙ぐみさえするのだ。
 かなわない、と思う。限られたごく短い言葉で、ここまで表現されてはかなわない。何か読みたいと思う気持ちは小説でもエッセイでも満たされるけれど、詩を読みたいと思ったら、その欠けた部分は詩でしか埋まらないのだ。
 詩を書ける人に心の底から憧れ、また嫉妬する。

2013/02/18

 今でも絵を描ける人はうらやましいし、写真を撮れる人に憧れる。グラフィックデザインや彫刻はなおのことだ。文字はすべてを伝えられる、でもそれでいてすべてを伝えきれるわけではない、とわかっているつもりでもいる。
 でも、ときどき、言葉の無力さに打ちのめされる。10の言葉より、1回のハグで伝わることのほうが多いのかもしれない。
 それでも、自分と他人のあいだに薄い膜がある限り、言葉にしないと伝わらない。表現したい思いがあり、それを表現できる手段を手に入れたことを、今は心から幸せに思う。

2013/02/09

霜を聞く心

 寒き夜に霜を聞くべき心こそ敵に逢うての勝は取るなれ
 大学受験の直前に、部活の後輩たちが激励のために色紙に寄せ書きをしてくれた。そのときに、顧問の先生のひとりが書いてくれた歌だ。なぜだかとても印象に残り、それ以来折に触れて思い出す。文字通り浮き足立っているときでも、この歌を口にすると不思議と気持ちが鎮まるのだ。
 いつでも、どんなときでも、霜を聞く心を忘れないでいたい。それでしか得られないものがあると思うから。

2013/02/07

きっと変わらない

 今でこそ運転免許を持ち、自分の車があるから機会は少なくなったが、路線バスに乗るのが今でも苦手だ。山形でもごく限られた路線にしか乗らないし、静岡でも東京でもほとんど乗ったことがない。
 どこに連れていかれるのか、本当に降りたい停留所に停まるのか、そんなことが心配なのだ。不安ですうすうする感じ。どんなに事前に調べて、必ずこの停留所に停まるとわかっていても、その気持ちは消えない。どこに連れていかれるのかという点では電車も同じだろうに、電車だとそこまでは思わないのだから不思議だ。
 私が最初についたピアノの先生の家は、バスに15分ほど乗らないと行けない場所にあった。小学校に入ってまもないころから、楽譜の入ったレッスンバッグを提げて、ひとりでバスに乗ってレッスンに通っていた。今の私は、母からもらったバス代の小銭を、手に汗をかきながらぎゅうっと握りしめて、緊張しながらバスに乗っていた私と、きっとそれほど変わらない。

2013/02/05

愛憎うずまく場所

 一時期、まるで趣味のように引っ越しを繰り返していたことがある。これまでに引っ越した回数は11回、自分でも呆れる。
 街の記憶はさまざまあれど、自分が一生懸命生きた場所は思い出深い。静岡しかり、イギリスしかり、神保町しかり。中でも神保町は、忘れようと思っても忘れられない、愛憎うずまく場所だ。
 もともと、出版社で働きたいという希望は、ちっとも持っていなかった。なかなか内定がもらえず、鬱々としていたときに新聞に載っていた小さな求人情報を見つけ、なぜか「私はここに入ることに決まっている」という根拠のない確信を持って履歴書を送ったのは7月に入ってから。上京して、1日で小論文の試験と3回の面接を受け、次の日には内定の連絡をもらったのだった。
 編集部に配属されてからは、仕事に追われる毎日だった。専門出版社だったその会社の分野に私は疎く、「こんなことも知らないのか」という目で見られることも多かったし、「地方の公立大学卒の、専門知識もない、しかも女性に何ができる」と言われたこともある。悔しくて悔しくて、見返すためにますます仕事にのめり込んだ。パンツスーツとパンプスは戦闘服だったし、神保町駅に降り立つと、自然に仕事のスイッチが入るものだった。そんな中で、外出の帰りや仕事が早く終わったときに少しだけ書店に寄るのが、ほんのつかの間の息抜きだった。志半ばで会社を辞めてからは、大好きな出版業界にいられなくなった自分が歯がゆくて、神保町を歩くことは一切なくなった。
 昨年、何年ぶりなのか思い出せないほど久しぶりに神保町を歩いた。神保町にはあらゆるところに思い出が溢れている。自分が作った本の増刷が決まり、弾むように書店に行ったこともあるし、反対に大きな失敗をやらかして、ぐすぐすと半泣きになりながらうつむいて歩いたこともある。あのころ、神保町という場所は、私の生活の、ほとんどすべてだったのだ。
 先日借りてきた「森崎書店の日々」という映画を観ていたら、そんなことを思い出した。神保町の、あの本の匂いが、ほんのすこし鼻先をかすめたような気がした。

2013/02/04

踏み出さなければ

 世の中には、何の躊躇もなく新しいことに挑戦し、結果を出しつつ飄々としている人もたくさんいるのだ、と知ったときの衝撃は大きかった。
 私は常に怖いのだ。自意識過剰と言われてしまえばそれまでだけれど、そうは見えなくてもいつも腰が引けて、ぶるぶる震えている。それを悟られたくなくて、いらない虚勢を張っている。
 それでも、踏み出さなければならない時が来たのだ、と思う。どんなに怖くても、前に進まなければならない。

2013/02/01

自分へのプレゼント

 目が覚めたら、障子の隙間から月の光がやわらかく寝室に降りそそいでいた。
 自分への誕生日プレゼントに、新しい辞書を買おうと思っている。いつも寄り添ってくれる、この先長く使えそうな辞書を。