2012/11/30

 理由を知りたい。理由の向こう側にある物語や風景に、たまらなく惹かれるから。

2012/11/29

天才が見る景色

 五嶋龍のヴァイオリンを聴きに仙台へ。
 プロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ、パガニーニの変奏曲、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ、ラヴェルのツィガーヌ、と難曲ばかりなのに、軽やかに、そして何よりも楽しそうに弾いているのがとても印象的だった。ころころとした音の粒が会場に広がっていく。挑んでいるのだけれど、そこここに感じられる余裕。必死さは微塵もない。演奏しているあいだに客席を見渡し、微笑み、堂々とした風格さえ感じさせる。3曲のアンコールを含め、終始圧倒されて帰ってきた。しばらく他の音は何も入れたくなくて、家でも五嶋龍ばかり聴いている。
 天才が目にするのは、美しい景色なのだろうか。

2012/11/25

工夫、経験、進化

 カッコウやホトトギス、ジュウイチなどは、他の鳥の巣に卵を産みつけて育ててもらう「托卵」をする鳥だ。卵から孵った雛は、仮親の卵を巣の外に落とし、仮親に自分だけを育ててもらう。仮親の卵を落とすために、雛の背中が窪んでいるということまでは、私も知っていた。
 なんの気なしにお風呂の中で聴いていたラジオで、おもしろい話を耳にした。
 1羽しか巣にいないカッコウなどの雛は、仮親の卵も孵ったように見せかけて数羽分の餌をもらうために、そのいないはずの雛の分まで自分で鳴くのだそうだ。本来なら「ピー」「ピー」というテンポで鳴くはずなのに、仮親を騙すために「ピーピーピーピー」と鳴くという。また、薄暗いところに巣を作るコルリやルリビタキに育ててもらうジュウイチの雛は、まるで自分以外にも餌を欲しがっている雛がいるように装うために、翼角と呼ばれる羽の黄色い部分を持ち上げて震わせるのだという。雛の嘴と口の中が黄色いため、翼を持ち上げることによって、複数の雛がいるように仮親にアピールし、体の大きいジュウイチが育つのに十分な量の餌を確保するのだそうだ。
 そして一方で、熱帯に住む仮親の場合、自分の巣の中にカッコウなどの雛を見つけると、この雛を咥えて捨てるという行動も見られるという。どちらも生きるのに必死だ。
 工夫と経験と進化。自分自身の進化について考えを馳せる。

2012/11/22

変わらない思いで

 そういえば私は、小さい頃から、「練り歩く」の「練り」の意味や、例えば「それは違います」と「それが違います」の微妙なニュアンスの違い、読みやすい文章のリズムなどについて延々と考えている子どもだったのだ。9歳のときにサンタさんにお願いしたクリスマスプレゼントが国語辞書だったのを、今でもはっきりと覚えている。
 そして、今も同じように、言葉に向き合っている。あの頃と変わらない思いで。

2012/11/17

旅は終わらない

 なぜだろう、帰国してから1週間以上経つというのに旅が終わったという実感がなくて、漂っている気がしていた。もちろん自分の体は日本にあって、物理的な意味での旅がすでに終わっていることはわかっている。それなのに心の一部がイギリスから帰ってきていないような感じが、ずっとしていた。帰ってきてからまたすぐに短い出張に出たりして、移動の速度に自分自身が追いついていないからかと思っていたけれど、この文章を読んで腑に落ちた気がする。
 「なんていうんだろう。旅というのは、実際に体を動かすという旅以外に、帰ってからもう一度反芻する、私にとっては内的な旅が続くというのがあります。それで全体の旅が完成する。」(『考える人』2012年秋号、ロングインタビュー 梨木香歩「まだ、そこまで行ったことのない場所へ」52ページより)
 私にも、ゆっくりゆっくり反芻する時間が必要なのだ。まだ、旅は終わらない。

2012/11/15

次のお椀

 ひとり暮らしを始めるときに買ったお椀が割れた。
 かなりの粗忽者だけれど食器はめったに割らないので、最初に買った食器はほとんどが今でも残っている。ただ、扱いが丁寧だとはとても言いがたい。そんなふうに多少手荒に扱っても耐えてきてくれた頑丈なお椀から、お味噌汁が漏れるようになった。
 学生時代、東京で満員電車に揺られて会社に通っていた時期、山形に戻ってきてからまたひとり暮らしをはじめ、やがてそれがふたり暮らしになった。途中実家に戻った時期もあるけれど、何回もの引っ越しに着いてきて、食卓に上っていた。買った当初はもっと鮮やかだった色は、今ではもうあせてしまっている。それでも、すっかりと手に馴染んだお椀だった。
 18歳の春休み、母と一緒に買い物に行ってから18年。そろそろ、次のお椀を買いに行く時期なのかもしれない、と、お椀を洗いながら思った。

2012/11/08

交差する人生

 旅に出ているからといって、することはいつもとそれほど違わない。ネットさえつながればどこでも仕事はできるし、散歩をしてお茶を飲み、音楽を聴いて本を読む。夕方にはスーパーで買い物をして簡単に料理をする。それだけだ。生活、と思う。
 それにしても、芸術三昧の滞在だった。あのあとコートールド・ギャラリーにも行き、そしてどうしても行きたくなり、ナショナル・ギャラリーにもう一度。ロンドン交響楽団の弦楽コンサートにも行ったし、まさに芸術の秋。ゴーギャンもマチスもカンディンスキーも観たけれど、個人的には、ゴッホに出会う旅だった。
 歩き疲れてお茶を飲んでいたら、あんまりぼうっとしていたように見えたのか、イギリス人の男性に「大丈夫?」と笑われる。しばらく私の拙い英語で話をし、”Have a nice day!”と別れた。ほんのつかの間、人生が交差する。

2012/11/06

visitor

 ひとりで海外にいると、当たり前だが一外国人でいられるのが気楽でいいな、と思う。ほとんど片言の英語しか話せない、背が小さいただの東洋人。いつもそれほど肩肘張って生きているつもりはないが、私が私自身の大きさでいられる気がするのだ。うまく説明できないけれど。
 ヴィクトリア&アルバート博物館、ナショナル・ギャラリー、と2日間続けて美術館に行っている。こちらの美術館はほとんどが入場無料で、それがとてもありがたい(もちろん寄付はする)。どちらも収蔵作品の量があまりに膨大で、途方に暮れてしまう。それでも、見たかったゴヤやカラヴァッジョ、ルーベンス、セザンヌにゴッホ、フェルメール、どれもじっくりと堪能した。椅子を持ち込んでスケッチをしている男性、熱心にメモを取っている学生らしき女の子、たどたどしい英語で一生懸命お母さんに話しかける幼い子ども。こんな環境で暮らせたらどんなに幸せだろう、と考える。
 日の当たるトラファルガー広場のベンチに座って、ぼんやりとミルクティを飲んだ。足元にはたくさんの鳩。
 ただの一外国人でいられるのは、私がここではvisitorだからなのだろうな、と思う。ふらりとやって来て、またすぐ去る。

2012/11/02

19歳、17年

 はじめて行った外国は、イギリスだった。19歳の夏。大きい大きいスーツケースを友達のお父さんの車に乗せ、夜も明けきらないうちに成田を目指して静岡を出たことを、今でも昨日のことのように憶えている。何が起こるのか予想もつかなくて不安だらけで、でもとにかくわくわくしていた。何にせよ、はじめての経験をしたところは記憶に残る。だから、私にとって、そのあとのさまざまな出来事も含めて、イギリスはちょっと特別な国だ。そして、そのあとも行きたい行きたいと願いながら、これだけの月日が経ってしまった。
 先日の広島に引き続き、17年ぶりにイギリスに来ている。人の細胞は常に入れ替わっているし、街自体も変わるから、今目にするロンドンははじめてのようなものだ。私の覚えているロンドンは、記憶の産物でしかない。でも、それでもひどく嬉しくて、冷たい風が吹きつけて涙目になることも、迷子になることさえも楽しんでいる。