2012/10/29

その人だけに見える景色

 「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
 ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 またひと休みして、考えこみ、それから、
 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
 そしてまた長い休みをとってから、
 「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれていない。」
 ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
 「これがだいじなんだ。」
(ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳『モモ』p.52~53、岩波少年文庫より)
 先が見えないようなときは、いつもこの文章を思い出す。「いつもただつぎのことだけをな」。一歩一歩進み、一段一段上ってきた人だけに見える景色がある、と信じている。そして、結局のところ、自分を救うのは、積み重ねてきたその一歩、その一段だけなのだ。きっと。

2012/10/27

職人

 天才は職人にはなれないし、職人は天才にはなれないかもしれない。私自身は、自分が天才ではないことを知っているからこそ、職人に憧れる。日々の仕事を淡々とこなし、最上級のものを追求する職人に。

2012/10/26

機嫌

 自分が機嫌よく過ごすために必要なもの。クラシック音楽、たくさんの本、柑橘系のアロマオイル、あたたかいほうじ茶、大判のブランケット、大好きなチョコレートやクッキー、寝そべることができる大きいソファ、光と風。
 つまり、私はいつでも機嫌よく過ごすことができるのだ、ということ。
 
 庭のホトトギスが咲いている。

2012/10/25

 言葉遣いや字の間違いにいちいち引っかかる自分を狭量だとも思うが、その一方で、神は細部に宿る、と信じている。

2012/10/24

覚悟と決意を持って

 もう8〜9年前になるだろうか、ある化粧品会社のCMのコピーは「幸せになる覚悟はある」というものだった。当時、どうしてそこで「覚悟がある」じゃなくて「覚悟はある」なんだろう、ということと、幸せになる覚悟なんてみんな持ってるはずじゃないの、という2つの違和感があったことを覚えている。「覚悟は」なのか「覚悟が」なのかはさておき、幸せになる覚悟は、しているようでしていなかったのだとつくづく思う。
 最近、いろいろな場面で覚悟を問われる日々が続いている。自分が自分の人生の主役であるという覚悟、自分のしたことに対して責任を負う覚悟、そして幸せになる覚悟。
 覚悟と決意を持って、自分の人生の舵取りをしていく。

2012/10/22

家族みたいな絆

 人と関係を築くときに何よりも大切なのは密度なのだ、と思う。どれだけ長いあいだ同じ学校に通ったり同じ仕事をしていても、どうしてもわかり合えない人はいる。その一方で、たった4日前には名前すら知らなかった人と、この先一生つき合えるだろうという絶対的な信頼関係を築くこともできるのだ。その場に来ること、そんな人たちと知り合うことはあらかじめ決まっていて、必要なときに必要なタイミングでやってくるだけなのかもしれない。
 結局は人なのだ。仲間や友達になるのも恋人になるのも、そしてたとえ血はつながっていなくても家族みたいな絆で結ばれるのも。

2012/10/18

 パイプオルガンの響きを聴いていると、心がどんなに波立っていてもやがて落ち着く。この鎮静効果たるや。

2012/10/17

続く非日常

 大好きな友達と、キース・ジャレットのピアノの音と一緒に山形に帰ってきた。
 まだまだ非日常は続く。

2012/10/15

よすがとする場所

 10年近く教会に通っていた時期がある。だからなのかはわからないが、海外に行くと観光スポットとしても教会に行くのが好きだ。日本でもそうだし、例えばお寺や神社にしても同じ。たぶん、それは私にとっては、その土地の人たちがよすがとする場所にいさせてもらう、という意味合いが強いのだと思う。
 17年ぶりに訪れた広島で、はじめて宮島に行った。厳島神社、千畳閣、どちらも風の吹き抜けるいい場所だった。何百年も大切にされ、その土地の人たちが折に触れて訪れ、長年手入れされてきた場所。教会に通ってはいたものの、私自身は確固とした信仰を持たないが、その思いが染み込んでいるところはやっぱりあたたかい。穏やかな瀬戸内海を目の前に、自分の体の中の空気をすべて入れ替えるようなつもりで、何回も深呼吸を繰り返した。

2012/10/14

垣間見る

 旅をしていて好きなのは、自分が訪れた場所でごく普通の生活が営まれている様子を見ることだ。私が荷物を抱え、スーツケースを引っ張っているその脇を、カゴにスーパーの買い物袋を入れた自転車が通り過ぎたり、制服姿の高校生がしゃべりながらすれ違う、そういう風景を見ると、あ、いいな、と思う。私にとってはちょっと特別であっても、その土地に住んでいる人はあくまでも生活する場所で、それが垣間見えるのがいいのだ。ちょっとだけお邪魔させてもらっています、という気持ちになる。
 その土地の空気は、結局は人が作り出すものだ。空気が忙しそうな場所は人も忙しそうだし、人がゆったりしているところはゆったりした雰囲気を醸し出す。尾道はどことなくのんびりした、空気が甘い場所だった。

2012/10/13

西へと

 新幹線に乗って、西へ西へと1,100キロ。友だちがいる街を訪ねるのは楽しい。
 途中、学生時代を過ごした静岡を通過し、富士山を見ながら、あーたまーをくーもーのー、うーえにーだーしー、と心のなかだけで歌った。

2012/10/12

触れられてしまう

 音楽を聴いていて、ああ、触れられてしまった、と思うときがある。心ごと全部持っていかれてしまうような、やわらかい羽で心の奥深くをなぞられてしまうような感じ。
 いつもなら、音楽を聞きながら作業をすることもできる。仕事中はずっとクラシックを流しているし、朝起きて食事の準備を始めるまでの時間は、大抵音楽を聞きながら本を読んでいる。大好きな曲はたくさん、ほんとうにたくさんあるけれど、心に触れられてしまう曲は数多くはない。そんな曲は、聴いているだけで胸が詰まり、自然と涙ぐんでしまう。目を閉じて、曲に身を委ねるしかないのだ。どうしたって抗えない。
 そして、昨日の夜から今日にかけて、私の心はほとんどそんな曲に持っていかれてしまった、という話。他にもこの曲に触れられてしまった人がいたからこそ、100年以上演奏し続けられているのだろう、とどこか甘やかな気持ちで考えている。

2012/10/11

季節の移り変わり

 玄関を出て、あ、と気づいた。ホトトギスの蕾が膨らんでいる。
 我が家は築30年ほどの一軒家の借家だ。ここに住んで、もう5年になる。それまではマンション暮らしだったのだが、どうしても地に足の着いた生活をしたくなり、一軒家に住みたいと探して見つけた物件だ。引っ越してきた当初は砂利だった駐車場部分を、車を停めやすいようにコンクリート敷きにするね、と言ってくれた大家さんに、草木の部分は残しておいてください、と私たちはわがままを言った。松の木があり、花がたくさん咲く庭をすべてコンクリートで固めてしまうのは忍びなかったのだ。大家さんは快く受け入れてくれ、今でも小さな庭は残っている。
 春になればつくしがほうぼうに頭をのぞかせ、そのうち立派なアスパラが生える。白水仙のあとは鮮やかなピンクの八重の椿が咲き、目の前の公園ではソメイヨシノと枝垂れ桜が咲き乱れる。そのうちドクダミがわさわさと葉を茂らせ、たくさんのビョウヤナギが咲く。そのあとに咲くホトトギスが終わったら、まもなく冬が来る。猫の額よりも狭い庭だけれど、庭に咲く花で季節の移り変わりを知ることができるのは幸せなことだ、と毎年思う。
 それにしても、今年は5月くらいから走りっぱなしだった。ドクダミが茂っていたのは記憶の片隅にあるけれど、一斉に黄色い花を咲かせたはずのビョウヤナギの印象があまりない。もうちょっと余裕を持ちたいものだ、と思いながら、ホトトギスの蕾が開くのを待っている。

2012/10/10

金色の美しい食べもの

 秋は、トーストと紅茶、という献立がいちばん似合う季節だと思う。キツネ色になる一歩手前まで焼いた薄めのイギリスパンに、きりっとした紅茶にたっぷり注ぐミルクがマーブル模様を描く食卓。この時期になると、朝に決して強くはなかったホストマザーが、眠い眠い、と言いながら毎日用意してくれた献立が決まって懐かしくなる。
 だからというわけではないが、お米が大好きな私が、最近は朝食にトーストを食べている。夫はもっぱらブルーベリージャムを塗っているが、私は蜂蜜で食べる。たらり、と蜂蜜をトーストに落とすと、それだけでなんだかうっとりしてしまうほど。金色という色を表すのに、蜂蜜はぴったりだ。こんなに美しい食べものは、ほかにそうそうない、と信じている。

2012/10/09

信じられる理由

 好きな作家が同じ人は、それだけでなにか信じられる気がする。読書という行為が、ごくごく個人的で、心の琴線に触れる作業であるがゆえに。

2012/10/08

境界

 「個人を群れに溶解させてはならない、と今でも思っています。」(『考える人』2012年秋号、ロングインタビュー 梨木香歩「まだ、そこまで行ったことのない場所へ」56ページより)
 境界、という言葉が数日前に降ってきて、それについてなんとなく考えていたら、今日買った『考える人』に上記のような表現があって、ちょっと腑に落ちた気がする。例えば自分と他人、中と外、どこにでも境界はあるけれど、個人的にはその理想的なあり方が、群れの中でもすっくと立つ個、ということだ。人間はいつも、決定的にひとりなのだからこそ。
 それにしても、境界にこうも惹かれるのはどうしたことなのだろう。できれば、自分自身の中にも境界を抱えたいものだ、と思えるほどだ。

2012/10/07

仲間という意識

 出張や体調不良が続いて、実に1ヶ月ぶりのスタジアム。
 共通点があれば仲よくなりやすいというのは事実だけれど、友達だったり顔見知りだったりまったく知らない人だったり、そんな関係は抜きにして、スタジアムに集う人たちは仲間だ、という気がする。みんなサッカーが好きで、それぞれ渾身の力で応援するチームがある、それだけでいいのだと思える。サッカーが好きな人に悪い人はきっといない、と無邪気に信じてしまいたくなるほど。チームがいいときも悪いときも、選手と一体になってシーズンを戦う、それがサポーターだ。
 でも、それにしたってこの結果は…、とため息をつきたくなるときもある。そして、それが今日だったりするのだけれど。

2012/10/06

享受してきた幸せ

 1週間以上遅れて、9月28日が戸籍上の誕生日である母の誕生日パーティー(いろいろと事情があって、本当の誕生日はまた別の日なのだ)。夫と父と妹夫婦の6人でワイワイと食事。こうやって、またみんなでお祝いできてよかったな、と思う。
 私の実家では、誰かの誕生日には、家族全員が、金額の大小には関わらず必ずプレゼントを贈るのが習わしだった。7人で暮らしていたときは、祖母と祖父、そして私が1月生まれだったので、「1月は出費が多いわねえ」と言いつつみんながプレゼントを用意していたのだし、今度の誕生日は何月だね、と、程度の差はあれ、全員がなんとなく意識しながら生活していた。そして、当時は当たり前のことだと思っていたそれが、どんなに幸せなことだったのかということを今さらながら実感する。自分が生まれてきたことを手放しで喜んで祝ってくれる人がいるということと、それを当然のこととして享受してきたこと。
 そういう環境で育ててくれた母のために、きっと母が好きだろう、というプレゼントを贈った。気に入ってくれるといいな、と思いながら。

2012/10/05

本棚と自信

 人の本棚を見るのが、たまらなく好きだ。そこに、その人自身が表れている気がするから。
 私自身の本棚を考えてみても、たとえば結婚したてのときの本棚と今のそれはまったく中身が違う。本を読むのが好きなのは変わらないけれど、志向・嗜好は変わるものなのだな、と思う。以前はもっとふわふわした文章が好きだった。地上15センチを漂っているような、甘い本が好みだったのだ。つまり、それは私が若かった、ということとほぼ同義なのだと思う。
 いくつか年を重ねて、以前も読んだけれどそれほど心に響かなかった作家の本が、今は何よりも大事だ。きちんと説明ができ、感情は孕むけれどそれに流されない、そういう文章を好むようになった。明晰であり、論理的であり、理性的であることが、今の私の本を選ぶポイントのような気がする。もちろん、それ以外の本もたくさん読む。ただ、自分の手元に置いて何回も読み返す本は、やはりその条件に当てはまるものが多い。
 そして、今なら、本棚を見られても恥ずかしくない。やっと自分に根拠のある自信を持てるようになったということだ、と言い切ると大袈裟に過ぎるだろうか。

2012/10/04

言葉の色鉛筆

 「で、結局お仕事は何なんですか」、と聞かれることがときどきある。わかる人にはわかってもらえるが、わからない人に説明するのはひどく難しい仕事だ。社長が講演活動とか企業研修をしていて、私はその会社で秘書兼なんでも屋みたいなことをしていて…と説明しても、「で、結局は?」と聞かれると言葉に詰まる。小さい会社だから、必然的にひとりひとりの仕事の領域は広くなる。その結果、私がやっているのは、調整や交渉や準備・手配のほかに、編集だったり校正だったり書類の作成だったり、一時期は労務も経理もなんでもやっていた。
 それでも、やっぱりいちばん好きなことは言葉に関わることなのだ、とつくづく思う。文章を書くこと、校正することだったらどれだけやっていても苦にならない。もちろん、真っ赤に校正を入れたゲラを見たくないことだってあるし、インタビューさせてもらった人の言いたいことを、どうやったらもっと的確に伝えられるだろう、とちょっと落ち込むこともある。でも、やっぱり言葉と戯れているときが幸せなのだ。
 私にとって、言葉は色鉛筆のようなものだ。たくさんの色鉛筆を使いながら、自分の見たり感じたりしたことにいかに近づけられるのか、その足し算や引き算が楽しくてたまらない。いつか、私そのものの言葉を見つけたい、と思っている。

2012/10/03

行き着く先

 私は、明晰で、それでいて感情を含む文章を書きたいのだ、と思う。

2012/10/02

守られた場所

 自宅で仕事をするようになって、外を出歩く機会がめっきり減った。まあ、出張はそれほど減っていないので実際は出ている時間も多いのだが、単純に通勤時間がなくなったということもあり、1歩も外に出ない日もしばしばある。そして、これがおそろしく居心地がいい。
 そのとおりだよね、と言われるか、そんな、と思われるのかはわからないが、私は元来自分から外に出かけていくタイプではない。小さいころから家で遊ぶのが好きだったし、家にはたくさんの本もグランドピアノもあって、家にさえいれば楽しいことはわかっていた。ぐずぐずした人見知りする子どもだったし、それをなんとか克服しようとした時期もあったが、もうとうにそれは諦めている。守られている家の中だけで暮らすことができるのなら、喜んでそうしているはずだ。
 Twitterでフォローしている、あるbotで、「家だけで1日が終わる生活をしていると何の可能性も創造しません。今と変わらない未来が待っているだけです。」というツイートが流れてきて、今と変わらない未来か、と思わず苦笑している。

2012/10/01

決意

 今の自分が持っている力は、もしかしたら目の前の人が手に入れたくても入れられなかった力なのかもしれない。
 それなら、精一杯、誠実に、この力を使わなければ、と思う。