2012/09/30

私の風邪は

 「あなたの風邪はどこから?」というCMがあるが、私の風邪はだいたい喉から始まる。首のところのリンパ腺にしこりのようなものができたら要注意、そこで食い止められればいいけれど、一歩遅いと喉が塞がる。バタバタと忙しくしていたつけが回ってきたのか、土曜日の朝からすこし喉が痛かったのだが、今朝起きてみたら関節も痛むので、出かけるのはやめておとなしくしていることにする。
 私はミントの類は一切だめだし、粉薬も飲めない。だからのど飴も舐められないし、スプレータイプの喉に直接塗る薬も使えない。甘い普通の飴をひっきりなしに口に放り込み、ときどきお茶でうがいをして、ひどければ薬を飲む。それだけだ。あとは体に任せるしかない。それでも、これまではきちんとなんとかなってきた。もともと体力があるほうではないし、30代も半ばを過ぎ、あんまり無茶をしてはいけないのだな、と思う。
 iTunesで小さくサラ・ブライトマンを流しながら、心の中でだけ一緒に歌っている。

2012/09/29

母のセーター

 大々的な衣替えをしなくなってから、ずいぶん経つ。子どもの頃は衣替えは一大事だったものだが、今ではそれほど大きな洋服の入れ替えはあまりしない。Tシャツ類をしまって、ニットを出すくらいだ。
 母が手先の器用な人なので、今に至るまで、ニットは母の編んだものが多い。編み物を習いに行っていたこともある母は、1シーズンに3人分くらいのセーターやカーディガンを編んでいた。以前編んだものをほどくときには、毛糸を巻く手伝いをさせられたものだった。
 セーターと言って思い出すのは大学1年の冬のこと。クリスマスを過ぎたら実家に帰る予定だったのにもかかわらず、母はアパートにプレゼントを送ってくれた。中身は編んでくれたセーター。それなのに、「届いた?」と電話をかけてきてくれた母に、友達が部屋に遊びに来ていた私はそっけなく対応し、ありがとう、の一言さえ言わなかったのだという。私自身はそんな対応をしたことはまったく覚えていないのだけれど、母はよっぽどがっかりしたのか、ことあるごとに思い出しているらしい。母には悪いことをしたな、と思う。そのセーターの色や模様も、今でもはっきり思い出せるのに、ありがとうすら言わなかったなんて。
 今でも、以前よりペースは落ちたものの、冬になると母は編み物を始める。そして、何度教えてもらっても編み物が身につかない不器用な娘は、今度はこれを編んで、とリクエストすることしかできない。

2012/09/28

 朝10時20分のスカイマークで旭川空港を発つ。風が強い、北海道の秋だった。

2012/09/27

あたたかい思いが満ちる場所

 青い池、美瑛の丘。MacとGmail、データベース。たくさんの時間の共有。

 富良野に来るといつも泊まる、いわゆるデザイナーズホテルがある。それほど大きくはなく、富良野にももっと豪華なホテルはあるけれど、いつ来てもとても気持ちがいいところだ。木や石をふんだんに使っている部屋。壁はコンクリートの打ちっぱなし、窓には布製のブラインド。清潔な真っ白のリネンにヤコブ・イェンセンの電話、デュラレックスのグラス、フロントでもらえるアロマオイル。わかりやすく言えばそういうことだ。
 けれど、居心地がいいのはそれだけが理由ではないのだと思う。このホテルが好きで働いているのだろうということ、向けてくれる笑顔の内側からにじみ出るもの、そういういろいろな思いが満ちているように感じられる。この、あたたかく迎えられているという雰囲気は、きっとスタッフの方がつくり出すものであって、結局は人に惹かれているのかもしれない。

2012/09/26

私のパワースポット

 はじめて訪れたのは、14歳の夏だった。
 母のたっての希望で足を延ばした富良野は、綺麗ではあったけれどそれ以上の感慨は何もなく、「北の国から」を熱心に見ていたわけでもない当時の私にとっては、空が広いところだな、という印象ばかりが強かった。20年以上経ってから、ここがこんなに大事な場所になるとは、もちろん知る由もなかった。
 仕事で富良野に行くようになって、2年ほどになる。何回降り立っても、心が躍る。パワースポットが自分が元気になれる場所なのだとしたら、富良野は間違いなく私にとってのパワースポットだ。同僚でもある大事な友達がいて、居心地のいいホテルがあり、大好きなお店があり、景色を見るだけでもエネルギーが充電される。広々とした空、なだらかに続く丘、吹き抜ける風。ラベンダーの香りが満ちる季節も、道路脇に連なる白樺に雪が積もる冬も、それぞれに美しい。1年ぶりに来た富良野も、以前と変わらず私を迎えてくれた。大切な場所があり、そこに来られることが、たまらなく嬉しい。

2012/09/25

友達

 「友達」という言葉の定義が、会ったりメールをやり取りすることなのであれば、私にはほとんど友達がいないことになる。忙しさにかまけて、と言えば聞こえはいいかもしれないが、要するに何事に対しても不精なのだ。もともと人づきあいが得意なほうではないし、人見知りだってする。心を割って話せる人がほとんどいないことを、すこしさみしくは思いつつも、私はそういうものなのだ、と思ってきた。
 でも、30歳を過ぎてから、幸運なことに、何人かのそんな友達に恵まれた。常に意識してきた「自分をよく見せなければいけない」という強迫観念のようなものの及ばない場所で、安心して本音を言える存在。あるいはまた、きっと、その渦中にいる私以上に、この状況を深く理解してくれるだろう、という存在。会う機会は少なくても、おいしいものを食べたりいい曲を聞いたりいい本を読んだりしたときに、「あの人だったらなんて言うだろう」と思い出すのが、私にとっての大切な友達。心にろうそくが灯ったようなあたたかい気持ちになれる。

 お元気ですか。近々また、お会いできたら嬉しいです。

2012/09/24

温泉の効能

 すこし、疲れていた。いつになく立て込んだ仕事に、心よりも体が先に悲鳴を上げ、もうめったなことでは出ない腰痛が、かなりよくなったもののずっと鈍く続いていた。体の芯に、澱のように溜まっている徒労感を何とかするために、いそいそと温泉へ行く。
 近くには温泉がたくさんあって、こういうときにはこんな環境がありがたい。昨日は、もう3年近く行っていなかった山の中の温泉へ。いつの間にか内湯ができて、施設そのものも広く、きれいになっていたのに驚く。ちゃぷり、と湯船に身を沈めると、思わず深い深い溜息が漏れる。最近よく行っていたところよりもお湯がぬるくてやわらかく、それがたまらなく心地よかった。親子づれで来ていた、5歳にもならないであろう子どもが2人、「大きいお風呂って気持ちいいね」「そうだね」と話しているのを聞いて、こんなに小さくても温泉は気持ちいいものなんだな、と思わず笑みがこぼれる。
 そろそろと露天風呂に移動して、再びお湯に身を委ねると、かすかに雨が降っていた。露天風呂には、「雨の日は笠をどうぞ」と、5つくらい笠が壁にかけてある。あれをかぶってお風呂に入ったら、きっとかさじぞうがお風呂に入っているみたいに見えるんだろう、と思うとなんだか可笑しい。顔を夜空の方に向けて、深呼吸を繰り返す。ざぶり、とお湯から上がったときには、不思議なくらい体が軽くなっていた。

変わること、変わらないこと

 書くことは当たり前のことだった。息をするように、食事を摂るように、眠ることのように普通のことだったから、どうして書くのかなどと考えたことはなかった。けれど、それが当たり前ではなくなってから2年近くが経つ。

 この2年近く、がむしゃらに走ってきた。よく言えば脇目もふらずに。いささか反省を込めて言えば、周りのことを振り返る余裕などないくらいに。

 そして今、改めて思う。やっぱり書きたい。

 ここで、また新たな一歩を踏み出そう。小さく、でも確実に。